ことばの世界

言語学を勉強してます

多言語政策の歴史

多言語政策が重要視されるようになったのはどのような経緯からなのか、19世紀の国家形成までさかのぼってみていく

近代国民国家イデオロギーのもと形成された国家

19世紀のヨーロッパで主に盛んだったのが近代国民国家イデオロギーに則った国家形成。これは言語と国家を一致させ、「国語」の確立に力を注ぐことを意味した。多くの国家では中心となる民族が国を作るよう働き、彼らの使用する言語を「国語」へと昇華させるため法的制度の制定、保証の拡張を急いだ。結果としてフランスやスペインでは16,17世紀から「国語」として認められていたギリシャ語・ローマ語に加え自国の言語(フランス語・スペイン語)が国語という位置に格上げされた。一方でまだ領封制が根強く残っていたドイツやイタリアでは言語政策は取りづらかったので統一は進まなかった。

少数言語の誕生

近代国民国家イデオロギーに則って再構築されていった国の中では、国語になれなかった多数の民族言語が存在した。国は国民に国語教育を押し進めていったので民族言語は衰退するか、国に対して奮闘するしかなかった。後者の行動を取った民族・地域は独立運動へと進むこととなったが、国はそういった民族・地域に対して「あなたらの民族言語を承認・最低限の保証はしますから、あなたらを国に統合します。」という対応を取った。この姿勢は現代でいう多言語主義の起源となった。

少数言語の権利

しかし、中心に「国語」が存在し、どうしても自民族の言語とその国のマジョリティが使用する「国語」には大きな差、すなわち上下関係ともいえる関係性が存在した。ソ連は民族平等の信念のもと非常に寛大な措置を講じたが他の国ではあくまで国語を上位に持ってくるスタイルを取っていた。この状況への民族批判が高まり、1960年以降ヨーロッパではエスニックリバイバルという運動が盛んになった。これはバスク語カタルーニャ語・フリース語などの多くの地域言語が言語の地位の向上を求める運動だった。この運動により上記地域言語は国家により庇護の対象となり地位が向上した。一部では特定の地域内での公的言語運用が許可される・自治に使える言語も出現した。

現存する問題点

エスニックリバイバル等にみられる地域言語・少数言語の地位の向上は言語間の関係性をおおいに改善できたがまだまだ問題は残る。国としては出来れば統治を国語で行ないたいわけなので、地域言語による自治をできるだけ認めたくない。一方で地域言語使用者は自治を自らの言語で行ないたい。これは言語間のトレードオフという状況になってしまい、過度にどちらかに傾くとそれはそれで片方に問題が増えることとなる。一方でバランスを取るにしても、どこまでいっても言語が文化やアイデンティティを表す以上、本質的な解決にはならないので国は最善の対応を常に求められているといえる。