ことばの世界

言語学を勉強してます

日本は多言語社会か

多言語社会について考える際、思い浮かぶ国々はというとアメリカやフィリピン、ヨーロッパ(EU)あたりになるのではないだろうか。逆に非多言語社会といったときに思い浮かぶのは単一民族国家と一般的には認知されている日本になるのではないだろうか。しかし日本も実は多言語社会なのである。その理由を以下にまとめた。

多言語社会としての日本

日本は単一民族国家として認識されているが、実は歴史を振り返るとそれは違うということが言える。アイヌ民族はもともとは和人と区別されていたし、琉球民族も同じように明治以降日本人として組み入れられたので、もともとは別の民族だとして取れる。もちろん言葉も違う。アイヌ語琉球語も生粋の日本人には聞き取れないし運用することも学ばない限りできない。なのでこれらは別の言語として認識されるので、本来日本には日本語以外に別の言語が存在することになる。さらに90年代以降は外国人が日本に多く流入してきたので、標識にも英語や中国語、場所によっては韓国語などが書かれている場合もある。これは日本政府が他国語を公共の場で利用し、人々がそれを受け入れているという状況を表す。この状況を多言語社会という。

日本の社会的多言語能力と資産

社会的多言語能力とは、その社会がどのくらいの数の言語を使っているか、どの程度使っているかといった能力を指す。日本はというと、公共の場(標識や案内図)では主に3カ国語(日本語・中国語・英語)が使われている。場所によっては4カ国語(上記+韓国語)使われている場合も存在する。しかし、日本人個人にフォーカスするとどうか。多くの日本人が日本語しか運用できない。英語を学校で学ぶことはあるが、運用するレベルでは教育が施されていない。別の言語に関しても同様なので個人の多言語能力をみると著しく低いと言えるだろう。そうなってくると日本の多言語社会としての資産(国内の多くの人が多国語を使用できることによって得られる恩恵)は少ないと言える。

壁としての言語意識

言語は文化と深い関係がある。文化の延長線上に言語があるので、他国語を学ぶ際、学習者はかなりの時間、習得に時間を要する。習得すると一概に言っても程度問題があるが、ここでは単に文法・単語の正確度や会話の成立度だけでなく、文化を理解した上での言語運用を意味する。この視点で言語習得を考えると、学習者には言語意識に対する壁が存在すると一般的には言われている。壁とは何かというと、他言語を学ぶ際にでてくる苦手意識や文化の違いによって発生されるニュアンスの習得の困難さなどを指す。多くの人が英語を学んできているのに、いざ外国人に道を聞かれると「アイドンノー、アイキャントスピークイングリッシュ」と咄嗟に返信してしまう英語やスピーキングに対する心理的障害とも言えるだろう。しかし、この壁の問題は若い人々ほど低い傾向にある。小さなころから部分的にしろ単語に触れ、音楽や映画、ドラマなどを通じて欧米文化に触れる機会が相対的に他の世代より多いからだと推測できる。