アイヌ語の衰退過程と復興
同化政策とアイヌ語の衰退
1869年、大日本帝国は蝦夷地を北海道と改められ、和人が次々とその地に開拓を図るようになっていった。同時にアイヌ民族に対して狩猟/漁業の規制を設け、アイヌ民族の伝統的な暮らしを強制的に変えていくこととなる。和人は旧土人学校(アイヌ学校)を設け、アイヌ民族の風習や振る舞いを野蛮なものとして教育し、アイヌの文化を意図的に衰退させ、和人への同化政策を取り計らった。 1899年、北海道旧土人保護法が制定され、アイヌ人保護という名の元に、以下の取り組みが行なわれた。
かくして、急激な文化・生活の変化に対応せざるをえない状況になったアイヌ民族たちは急速に貧しくなり衰退の一途を辿った。しかし、国勢調査ではアイヌ民族は省かれて集計されていたので、具体的な人口の推移は計れていない。
戦後のアイヌ復興の過程
戦後、日本が高度経済成長に突入するとアイヌの土地は一つの観光スポットとなった。これまで「アイヌ民族であることは恥だ、アイヌ語をしゃべってはいけない」と教えられてきた多くのアイヌ民族は生きるためにアイヌ人であることをあからさまにし、これまでは年に一度、大事な儀式として存在していたイオマンテ(熊を神と見立て、感謝しながら毛皮や肉を頂く儀式)を毎日のように観光客向けに行なったりするようになった。その努力?もあって現代ではアイヌ民族への理解の深まりと認知度の向上が達成でき、復興にチカラを注ぎやすい環境になった。